アジアの歴史byチンギスハン

中央アジア、東アジアの歴史を部族の視点から研究する

【土木の変】(3)エセン軍の誤算 、明のその後、ユニークな皇帝たち

前回のあらすじ

明の朝貢貿易の拒否にエセンが怒り3万の大軍を発して明を攻めた。

この動きに明の宮廷で実権を持っていた宦官の王振は自分の影響力のさらなる拡大を狙って若い皇帝英宗を親征させる。

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明軍は居庸関を越えて大同に向かうも大雨で道はぬかるみ行軍は困難を極める。

拠点の大同に到着すると付近の拠点はすべてエセン軍により占領されて作戦不可能なことを知る。

勝手に「勝利した」と宣言して撤退に入る。

長い隊列で撤退行軍する明軍に対してエセン軍は弓矢で攻撃、戦力と士気を奪う。

追われる獣のようにして弓矢攻撃を防ぐために土木保という高地に布陣する。

しかしそこは水が全くない高地だったために滞陣が難しく明軍はエセン軍の攻撃を防げず半数が死に残りは捕虜になる大敗北を喫する。

皇帝英宗は捕虜になり宦官王振は味方の親衛隊に斬られて死ぬ。

エセンは捕虜の英宗を伴い北京に向かう。

エセン軍の誤算 

さて皇帝を捕虜にした空前の勝利にエセンが大喜びしたかというとそうでもない

「勝利」の事実はもちろん嬉しいし重要だが、まだなにも得ていないからである。

多くの捕虜は得た。

しかしそれだけで大動員のエセン軍が満足するわけではない。

つまり財宝が必要なのだ。

絹織物や銭やそのすべての物資を塞外は欲している。

 

その面でエセンはついてなかったといえる

そこそこの勝利なら講和を結んでそれなりの品は確保できたはずだからだ。

中国は領土の割譲は極端に嫌う。

また上下関係にも敏感だ。

頭を下げるくらいならカネを渡す

エセンは明の上位に立ちたいわけではなかった。

 

要するにカネだけがほしかったのだ。

 

さらにエセンにとって不幸だったのは攻略目標は北京だったことだ。

もし他の城なら攻略できてそれなりの戦果もあったことだろう。

しかし、北京は明の首都であり、かつ永楽帝がモンゴルからの攻撃を食い止めるために作り込んだ、明最強の砦だったからだ。

下は北京城の楼閣

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 ということで要衝、居庸関をやすやす通過したエセン軍も北京城を包囲したものの攻めあぐんだのである。

また遊牧民漢民族=20:1の法則も城攻めでは当てはまらない。

馬の機動力が使えず、守る方は高い壁に守られているからである。

今度は明の事情を見てみる

追い詰められた明は新皇帝を即位させて防衛を図る

唯一無二の存在である皇帝が捕らわれたからといって簡単に廃立はできない。

もし現在の皇帝が生きていて皇帝の座に返り咲いたら、新しい皇帝を擁立した関係者は全員が「反逆罪」として死罪になるからだ。

実際今回もそうなった。

だからよほどのことでないと新帝を建てる決断はできない。

まずは敵軍と「返してもらう」交渉をしてからとなる。

 

しかし今回は明側に中心となる実力者が不在だった。

宦官の王振は土木保で死んだからである。

宮廷にいたのは皇帝の弟で留守を預かる後の景泰帝(在位1449~1457年)生年1428年~1457年

とその取り巻きである。

皇帝がいないときには最高責任者は皇太后になる。孫氏である。

 

太后にしてみればどちらも自分の子供である。

そして明は存亡の危機にある。

発祥地である南の南京に難を避ける案も出されたが、南宋がそれにより滅びたことを例に出して兵部侍郎の于謙が退け、皇太后の命によって景泰帝が皇帝に即位した。

一応形式としてかん国になってからだが。

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こちらが景泰帝

ここで明には二人の皇帝が存在したのだ。

景泰帝の体制

景泰帝は即位すると自分を立ててくれた于謙を登用して権力基盤を固めた。

実権を独占して財物を溜め込んでいた王振の一族を逮捕して財産を没収した。

王振一族の粛清により新皇帝の人気は高まりエセン軍の重囲をはねのけることができた。

エセン軍と明側が講和成立。皇帝は返還

困ったのはエセンであるせっかく捕らえた皇帝の価値が一気に無価値になってしまった。

あせったエセンは明側と講和の交渉を行った。

エセン軍の包囲に耐えていた明側も苦しかったことはエセン軍以上である。

講和を拒否する理由はどこにもない。

 

かくして両軍の間に講和が成立した。

戦場では無類の強さのモンゴル兵も策略にかけては漢族の方が上だ。

明は形式上のモンゴル軍の総帥であるトクトアハンを交渉相手とした。

「そいつはただの飾り物で本当の首領はおれだ」というわけにもいかずエセンは困った。

結局おだてられてトクトアハンは講和を承知した。

この後も明側の執拗な分断工作は続く。

日本で言えば足利義昭織田信長の関係だろうか。

条件は

交易は今までどおり行う。ただしトクトアハンにも権利が認められた。

とらえた英宗は無条件で返還する。

エセンは戦果の割にはなにも得るものがなかった。

英宗は太上皇帝になるも軟禁の身

景泰帝も腹違いとはいえ兄なので殺すわけにもいかず「太上皇帝」として北京城に軟禁した。

しかし体面をおもんぱかって、英宗の息子を皇太子に任命して融和を図った。

 

しかし皇帝の気持ちは誰にもわからない。

権力の座につくと自分の子供に継がせたいと思うのは当然だ。

さらに甥とはいえ、兄の皇帝の座を奪ったと皇太子が考えていれば自分の死後、自分は批判されるかも知れず、皇帝となり権力を握った皇太子が自分の子供を殺す可能性もある。というか中華の歴史は近親者を粛清する例で溢れている。

その場合はその後の禍根を断つために一族皆殺しがデフォルトだ。

 

日本でも秀吉は淀君が生んだ我が子?秀頼に後を継がせるために弟秀長の子供秀次を妻妾、子供すべて鴨川の河原で殺害した。

 

皇太子を我が子に交換、賄賂を送った皇帝と呼ばれる

景泰帝は即位3年目に我が子を皇太子を廃立して我が子と交換した。

反対する家臣がいた。

なんと景泰帝は家臣の不満をなだめるために家臣たちにカネを配った。

「家臣に賄賂を送った皇帝」と影で嘲笑されたそうだ。

クーデターで英宗復権 (奪門の変)

せっかく立てた自分の子供の皇太子はなくなり他に子供もいなかったので後継者は立てなかった。

自身も病気になった。

この状況に太上皇帝に近い家臣が英宗を再び帝位につけるべくクーデターを起こして再び帝位についた。2度めは天順帝と名乗る。

その後景泰帝も病没するがまだ30歳だったので病気だったとはいえ殺されたのだろう

粛清の鬼となる

最初の犠牲者群はみなさんの予想通りだ。

皇帝の自分を差し置いて弟を皇位に付けた関係者を残らず処刑。

 

次に粛清されたのは奪門の変で自分に味方して帝位につくことに協力した重臣たちである。

皇位に付けたことをたのみに専横の振る舞いが多かったのだ。

このことが英宗の逆鱗に触れて粛清される。

晩年、といっても38歳で亡くなっているのだが、自らの粛清を悔いている。自らの死にあたっては殉死を禁じている。

エセンのその後

大軍を動員しながら大した収穫もなく帰らざるを得なかったエセンだがさらなる追い打ちを受ける。

明の分断工作にあう。

明は以前のようにエセンと朝貢貿易を続けるとともにチンギスハンの血筋を引く主筋のトクトアハーンに目をつける。

「本来はモンゴル族はトクトア様が治めるのがスジですね」

「自立されるのなら明は恨みのあるエセンよりトクトア様を応援しますよ」

といって分断に出たのだ。

 

もとからトクトアにはチンギスハンの後継者である自分が傍流のオイラトの風下についていることに不満があった。

今まではエセンの圧倒的な軍事力の前にはいかんともできずに名目上の主君の地位に甘んじていたのだ。

自立を目指してうごき出した。

その動きがエセンにもれないはずはない。

 

土木の変から4年後にトクトアを殺害。反乱の核として推戴されるのを恐れたのだ。

そして自らがハンとして即位。エセン・ハンとなった。

しかしこれはモンゴル族のしきたりには合わないものだった。

エセンの武力とトクトアの正当性がエセン陣営の強みだったのだ。

明の策略にはまったといえる。

翌年にはエセンは自分の部下に暗殺されオイラトは力を失った。

エセンあってのオイラトだったのだ。

以上です。

素人の長い記事をお読みくださりありがとうございました。

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【土木の変】(2)明軍死地で大敗、しかしもともと互角の戦力だったと思う

 土木の変(2)

 北方を北元に代わりオイラート部が支配

明によって北に追われた北元が勢力を占めていましたがモンゴル高原の北西を根拠地とするオイラート部に英雄エセンが出てモンゴルを統一しました。

ただし名目上の王はチンギスハンの子孫のトクトア・ハンにしていました。

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オイラートはたびたび国境を侵して略奪をしていました。

これに悩んだ明は伝統的な方法で解決しました。

形式上明に服属させて利益を与える方法です。

朝貢貿易といいます。

明は鄭和を東南アジアに派遣したこともありましたが民間での貿易は禁止していたのです。

だから他の国が明の絹織物を手に入れるのは非常に困難でした。

どこからか流入すれば高い値段で取引されました。

 

明は正式には貿易はしなかったのです。

朝貢貿易の流れ

北のモンゴル族との間では馬を献上してそのお返しにその何倍もの品物を渡す形式で行われました。

明側の大幅な赤字貿易です。

安全をお金で買う宋以来のお家芸です。

 

明側としては赤字幅を押さえたいのでなるべく小さくやりたいのです。

だから交易の場所や規模を制限していました。

貿易使節団の人数は50人と決められていました。

 

日本との勘合貿易では割符である勘合の数は決まっており商人や大名の間で奪い合いになりました。

義満も儲けましたが博多商人、堺商人、大内氏などが大きな利益をあげました。

生糸では30倍の利益があったと言われています。

品物が極端に少なく競争相手もいないので勝手に値段をつけることができました。

売るのに苦労している商業の人には夢のような話です。

 

義満は儲けたお金で京都の北山に金閣を建てました。

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今でもびっくりする豪華さですが当時は空中廊下で他の幾つもの建物とつながっていたそうです。

その後義満は準后となり臣下と皇族の間くらいに上り詰めます。

その後謎の急死を遂げて、反りが合わなかった息子が金閣を残して他はすべて壊してしまいました。

義満は貿易の条件を満たすために「日本国王 臣義満」と称したことが問題とされています。

中国に対して臣下と称したのがけしからん、日本の名誉を貶めたという理由です。

しかしこれについては別の見方もあります。

中国皇帝=同格=日本の天皇

        ↓

        征夷大将軍義満

天皇の家来である征夷大将軍の義満は中国皇帝の臣下と称しても構わないという理屈です。

義満については強引なエピソードはおそらく日本歴史上トップでしょう。

貴族や寺社を訪れて気に入った樹木や石があれば所望し、渋って応じなかった貴族が後日池に浮いていたとか、気に入った女性がいればこれまた所望し、渋った貴族は・・・

おまけに天皇の周りの女官にも手を付けていて、天皇がすごく嫌っていたとか

かの信長でもそんなことはしていませんから。

いつか記事にしたいですね。

オイラート使節団は大幅な水増し

それほど押しの強い義満を上回ったのがオイラートのエセンでした。

50人の使節団の定員に対して1440年には千人を突破しました。

20倍の水増し。カルピスなら薄くて飲めません。時代がわかりますね。

その分民は負担が増えるわけですから困るのですが、渋ると国境を略奪されるので仕方なく応じていました。

 

「ロバを潰すのは最後のわらしべ一本」ということわざどおり、とうとう明の忍耐力を突破しました。

1448年冬、エセンは3598人の使節団を送ると通告してきました。

定員の70倍です。

さらに明側が調べてみると実数は大幅に下回ることがわかりました。

少なくやってきて申告した人数分もらおうという図々しい作戦です。

エセンの方は図々しいなんてちっとも思っていません。当然の権利だ。

「国境を荒らされるよりは安いだろう」とそろばんをはじいています。

 

明側はこの年の通商を拒否。ついでにエセンと明の皇族の女性との婚姻が決まっていたのですが「地方官が勝手に決めたこと」としてこちらもなかったことにしました。

♣王族と言ってもたくさんいるし、さらにたいていは女官を養女にして送り出したので明側としてはできない注文ではなかった。モンゴル一の実力者に対してすることではない。塞外民族は婚姻での血の繋がりを重視したのだ。女性を低く見るわけでは決してないが、結果として自称50万の兵士が全滅することになるので大事な婚姻だった。

メンツを潰されてエセンは怒り全軍を動員

けちりメンツを潰した償いをさせてやろうとエセンは大動員をかけました。

兵力2万とも3万とも言われています。実数はさらに少なく1.5万ほどだったでしょう。明軍が自称50万を動員しましたから数の上では大したことが無いように一見見えます。

しかしモンゴル兵は1人が10頭ぐらいの替え馬を連れ、さらに食料として10頭以上の羊や山羊を連れたので大移動です。

兵糧の運搬は遊牧民が有利です。ひつじやヤギは自分で移動しますから。

さらに食料が足りない時は馬も食料にしました。

輜重部隊は少数でいいのです。

♡兵力差が大きく感じられるが遊牧民と漢族の戦いでは10~20倍の差が標準なので互角といえる。あとは作戦、用兵、将軍の差となる。さらにこの戦いでは兵站の差が勝敗を分けました。

エセン大軍を発するに明は震撼

モンゴルに何度も痛い目にあっている明側はエセンが大軍を起こしたことを知り恐れます。ならばケチったり婚姻を破棄しなければいいと思うのですが、なんかちぐはぐです。

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宦官王振のもくろみ

明の宮廷で実権を握っていた宦官の王振は賢い人物でした。

学識が高く皇太子の家庭教師を努めて皇帝の信頼を得ました。

そして特務機関である錦衣衛を握って政敵を追い落として強大な実権を握り蓄財をほしいままにしました。こう書くと悪い宦官の典型的なパターンですね。

彼に弱点があるとしたら軍事の経験がないことです。

 

そこでかれは得意の計略を使い皇帝の親征を要請しました。

何もわからず、辺境への戦争に行くのを嫌がる皇帝を言いくるめて親征となりました。

これでどうあっても王振は責任をとらなくてもよくなりました。

 

自称50万の大軍で首都北京を出発。居庸関を通り戦地へ近づきます。

居庸関はこちら 防御力がとてつもなく高そうです。

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前線基地の大同に向かいました。

道中大雨に降られて士気も低下しており苦難の行軍となりました。

大同に到着するもすでに周辺の明軍基地はオイラトの攻撃で壊滅状態なことを知ります。遅すぎ。

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進軍不能

ぬかるみで行軍の動きが鈍り、補給も停滞して士気も低下していた明軍はそれ以上の作戦を諦めて勝手に「勝利を宣言」して撤退に移りました。

晴れた日でさえ20万を越える軍の補給は難しいのに大雨では輜重の車も動かず補給は無理だったでしょう。

無理やり皇帝を担ぎ出しての遠征なので「無理なので撤退」といえるはずもなく戦果はなくとも「勝利」といったのです。

エセン軍の攻撃を受ける

撤退戦で意気が上がらない行軍に対してエセン軍は間断ない攻撃を容赦なく仕掛けました。

狩りに慣れた遊牧民にとって逃げる敵を仕留めるほど楽なことはありません。

味方の損害がないからです。

損害を常に気にする彼らも凡将に率いられた失意の軍を襲うほど楽なことはありません。

狩りの感覚て矢を射掛けで相手が防御の姿勢を取ると他へ移ります。

自称50万実数25万の大軍が損害を出しながらなすすべもなく絶望的な撤退の行軍をしたのです。

 

オイラートの罠にかかる

間断のない矢の攻撃にさらされた明軍歩兵は何とかして矢を防ぐ必要がありました。

そこで高地を見つけて自ら登って陣を敷いたのです。

高地は弓矢からの防御に有利です。

明軍は高台の土木保に布陣 

この高地を土木保といいます。

やっとたどり着いた高地に陣をしいて明軍はさぞかしホッとしたでしょう。

少なくともここにいる限りモンゴルの弓矢からの攻撃を受けることはない。

土木保は水のない死地だった

しかし結果的にその地は明軍にとって死地になりました。

水がなかったのです。明軍は早速陣地内に井戸を掘りましたがいくら掘っても水は出なかったのです。

渇水していたのではなくてそういう地層の土地だったのです。

水の備蓄を使い果たしていた明軍はその晩から水がなかったのです。

兵士がそれに気づかないはずはなく士気は下がりまくりパニックになりました。

 

水が付近になかったわけではありませんでした。

低地には川が流れしかも長雨で増水していたのです。

しかしその地はオイラト軍ががっちり押さえていました。

全くの作戦ミスです。

 

しかもここは上の地図でもわかるように明の領地です。

知らなかったでは言い訳になりません。

一方のアウエーのモンゴル軍の方が地形をよく知り生かしたのです。

これでは勝てるはずがありません。

オイラト軍の総攻撃で明軍は文字どおり壊滅して半分が戦死、残りは捕虜になり一方的な戦いになったのです。

 

皇帝は逃げることができず呆然と立ち尽くしているところをオイラト軍に囚われました。皇帝が敵軍の捕虜となるのは長い中華の歴史の中でまさにこれ一回です。

宦官王振は乱戦の中で明の親衛隊に殺されました。

 

エセン軍は捕虜となった皇帝を連れて北京に向かいました。

今回はここまでです。

最後にこの戦いのポイントを考えたいです。

もともといい勝負だった

本を読んでいると「明軍は圧倒的な大軍を擁しながら大ドジを踏んで寡兵のエセン軍にやられた」みたいな論調が多いです。

私は別の見方をしています。

それは明軍の大チョンボがなくてもいい勝負だった。と思うのです。

従来言われている明軍50万とエセン軍2.5万は20倍で野戦では互角です。

 

 

だから双方がベストを尽くしていても「いい勝負」だったと言えます。

明軍としては野戦を避けて強固な防衛線である長城や砦を活用すれば勝機はありました。

しかし未経験の王振が兵站も、準備もなしで戦えば土木保の失態がなくても大敗は確実だったでしょう。そのくらい漢族と遊牧民の戦力差は大きいのです。

塞外ならいざしらず、勝手知ったる自国領内でわざわざ死地に布陣して壊滅したこの戦いは何かしら後味が悪い戦いです。

エセンと英宗のその後の波乱万丈の人生については次回にします。

 

ここまで長い文をお読みいただきありがとうございます。

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【土木の変】明の皇帝が捕虜になった土木の変、モンゴル・オイラートとの戦い(1)

今回は中国史上でも珍しい「皇帝が敵の捕虜になった戦い」をお送りします。

漢民族の国である明の第6代皇帝正統帝、在位1435年~1449年が主人公です。

この正統帝はもう一つ明の皇帝の中では変わった経歴です。

それはもう一回天順帝として皇帝に返り咲いているからです。在位1457年~1464年

合計すると21年帝位についていたことになります。

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明代は一人の皇帝の元号は一つだけなので皇帝名を元号で呼ぶのが一般的です。

例えば明を開いた太祖は洪武帝元号で呼ばれるのが一般的です。

そうするとこの正統帝は例外なのでややこしいことになります。

それで廟号をとって英宗と呼ばれる方が多いようです。

生年1427年で8歳で1回めの皇帝になったことになります。幼帝です。

38歳で亡くなっていますが波乱万丈の人生でした。

 

明は北方のモンゴル族の脅威に苦しんだ

明はモンゴル族の元を北方に追いやり建国しましたがモンゴルは滅びたわけではありません。

北元としてモンゴル高原を中心に依然として大きな力を持っていたのです。

そのため3代皇帝の永楽帝は大規模な対モンゴル遠征を行ったりして成果も上げました。

防御力を高めるために首都も北方に近い北京に移して高い城壁を築いたのです。

また現在残る万里の長城は明の時代に築かれたもので壮大なスケールと規模を誇ります。

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秦の始皇帝によって築かれた長城よりは位置的には南になります。

それだけ防御範囲を限定して手堅く守ったと言えます。

有名な山海関からの点線は低い土塁で作った防衛線。モンゴル族女真族への備えとして作られた。

万里の長城は役にたったのか?

写真を見てまず感じるのはこの建築物をつくるのは大変だったろうなあ。

重機もない時代に人力で作ったのです。

大変さがしのばれます。動員された民衆の苦労は大変なものだったでしょう。

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この長城の建設の目的は北方民族との戦力差を埋めるためです。

戦車や飛行機・自動車がなかった時代で馬による機動力は圧倒的でした。

 

中国にも馬はいたし騎兵もいました。

しかし中国人の場合は訓練を受けて騎兵になります。

また大部分は歩兵です。

中華の国どおしの戦争ではそれで立場は対等なのでいいのです。

だから兵力10万と1万が戦えば兵力が多いほうが有利です。

 

しかし北方遊牧民と漢族の兵士の戦いでは兵力差が1:20くらいが相場だと言われています。野戦の場合ですが20倍の戦力差があるのです。

 

その理由は馬の利用による機動力の差です。

モンゴル兵は一人で5から10頭の馬を連れたといいます。

モンゴルの馬はいわゆるポニーで小型の馬なのです。

だから一頭の馬を長時間使用するとつぶれてしまいます。

10頭くらいを乗り換えながら使用するのが一般的だったのです。

 

遊牧民は幼少の時から馬に乗ります。遊牧に必要だからです。遊びも仕事も馬なのです。だから彼らは馬の乗り方が漢人よりは断然すぐれていたのです。

防御するものがないと戦いにならない

馬を使っての戦いでは遊牧民漢人ではプロとアマの差があります。

彼らは振り向いて後ろの敵を射ることができました。

また馬の腹側からも弓を射ることができたのです。

モンゴルの弓は小型の短弓で扱いやすくて威力がありました。

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防御するものがない平原での戦いでは一方的に不利です。

漢兵はしゃがんで盾で取り囲み防御しますが、防御が固いと見れば逃げ去り別の場所を探します。

こうしたことから兵力差の1:20は当然の結果です。

 

長城があれば敵は簡単には乗り越えられないので機動力を封じることができます。

小部隊の移動はシャットアウトできます。

諜報活動や陽動作戦も制限を受けます。

 

反対に漢族側は長城が移動の道になります。

遊牧民と漢族兵の大きな差は縮まります。

 

実際に山海関は破られなかった。

遼東から中華を守る関門である山海関は明が滅びるまで一度も破られることはなかったのです。

勇猛で鳴る満州八旗の清軍もとうとう落とすことができませんでした。

満州族創始者ヌルハチは攻撃の時ポルトガル製の大砲の破片が元で死にました。

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難攻不落の山海関は最後までその防御力を発揮しました。

満州の清軍がここを通ることができたのは明の守将である呉三桂の寝返りによってのことです。北京を占領した李自成に反発しての行動です。

 

【小説】満州のチンギスハン、清の太祖ヌルハチ物語(1)

(初めに)

私は学者ではないので興味のある歴史の部分を切り取り、わかりやすく面白くをモットーに書いたものである。

なるべく史実に沿っているが正確でないところもあるし、想像の部分もある。

楽しんでもらえるとうれしい。

とはいえ、間違いや感想などをコメントいただければ有り難い。

またリクエストもお願いしたい。

今回は簡潔さを求めて試しに常体を用いた。

 

チンギスハンとヌルハチ

後の清である後金を建国した太祖ヌルハチとモンゴルの英雄チンギスハンは似ている部分が非常に多い。

どちらも文明の光が届かない辺境の部族のそのまた小部族の長の家に生まれている。

小さい時に父をなくしそれも悲劇的な死で失い少年時代を不遇のうちに過ごしたこと。

後にどちらも大帝国を作るが、この少年時代から小なりとはいえ自分の部族の長になるまでが一番生き残る確率が低いと思われること。

その確率は何千万という卵を生む魚や、あるいはマンボウが育つくらいの確率だったろう。

 

あえて興味本位に違うところを探すとヌルハチは典型的な武人でリーダーであること。

大きな戦力差の戦いの中でも負けはなかった。

戦闘の中心となって戦うので矢や銃弾、大砲の破片を受けたことはある。

当時の最新式のヨーロッパ式の「紅夷大砲」の傷が原因で亡くなっている。

戦いの天才と言っていいだろう。特に野戦には無敵を誇った。

 

日本で戦争に才能があり負けなかったといえば豊臣秀吉を思い浮かべる。

かれは家康相手の小牧・長久手の1引き分けしかない。

 

ただし見た目は秀吉が身長が120センチ台とも言われ体格に恵まれなかったのに対して、ヌルハチもチンギスハンも民族の中では体格が良かった。

残っている画像で見ると

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肖像画なので悪く書くはずもないがカリスマ性を感じる画像ではある。

 

対してチンギスハンは戦いには強かったが負けてもいる。

ただし敗戦でもどこからか仲間が増えて命がけの家臣が増えるのが彼の特色だ。

それはモンゴル族に限らず人種を越えている。契丹の耶律兄弟などは創成期から重臣として参加した。

その生い立ちとあらまし・時代背景

わかりやすさをモットーとするのですべて西暦表示とする。

1559年誕生 

女真族建州女直の5部族のうちのスクスフ部の首長、タクシの4男として生まれる。

大きく分けて女直は3つあった。

現在の中国東北部から北朝鮮に住んでいたのが女真族で、明の時代は南から建州女直、海西女直、野人女直があった。地図の通り。

暮らしのスタイルは狩りや猟採集といった原始的な生活。生産性は低く人口も少なかった。しかしその生活の必要性から幼少から馬に乗り、勇敢で戦いに強かった。

 

明は元を北に追いやってできた国

1368年明の太祖朱元璋洪武帝はモンゴルの元を北に追いやった。

しかしモンゴルは元の本拠地に帰っただけだ。

モンゴルの地で勢力を持ち続けた。

明はモンゴル対策に大きな負担を強いられた。

万里の長城で現在残っているものは明の時代に築かれた。

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今見てもすごい。

これらを築く労力と負担は大変なものだっただろう。

何しろパワーショベルがなくすべて人力。

このくらいの城がないと騎馬民族の脅威は防げなかったのだ。

大きな地図で見ると

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満州平原の西の端、大興安嶺山脈の麓までがモンゴルの領域だ。

明の分割統治

塞外民族は大きな集団になると手強いことを知っている明は分割統治の手段を用いた。

よくできたシステムだ。大英帝国も植民地経営に用いた。

明の言うことを聞く部族には利益を与えるのだ。

 

室町幕府の3大将軍、足利義満はこのルールで日明貿易をしたことでしられている。

というか評判が最悪だ。

貿易の利益のために明の家来に形式上なったからだ。

臣源義満と称した。

臣と称することと、明の暦を使うことが前提条件だったのだ。

引き換えにかれは膨大な利益を得て金閣など一連の造営をした。

 

金閣は今は一部しか残っていないが空中を渡り廊下で結ぶ複数の建築物群だったのだ。

義満と反りが合わなかった息子で後継者の義持がすべて壊した。

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高所恐怖症の私には空中廊下など渡れそうもない。

 

この勘合貿易に使われた勘合には限りがあり、博多商人、堺の商人で奪い合いだった。長門大内氏は貿易で大きな富を築いた。

 

塞外民族にとって貿易許可証は宝の山だった

生産性が高く裕福な部類の日本ですら勘合貿易は宝の山だった。

だからこそ義満は名を捨てて実を取ったのだ。

輸入品は生糸、絹織物、陶磁器です。輸出品は刀剣、硫黄、フカヒレなどと教科書で習った。

生糸は30倍で売れたそうだ。何しろ競争相手がいないので売りてサイドが主導権を持つ。

現代の小売ビジネスの人が知ったら羨ましさで卒倒するだろう。

昔から通商、貿易はしこたま儲かる。もう一つは金融だ。

 

生産力が低く原始的な生活をしている塞外民族にとっては貿易はまさに死活問題だ。

女真族の産物の黒テンの毛皮にしろ、砂金にしろ、淡水真珠とかも、朝鮮人参も流通に乗らなければ実質的な産物には交換できないから。

塞外民族共通の産物である馬もそうだ。

 

日明貿易はどうやっても日本側が儲かるようなしくみになっていた。

だから明側は勘合の数を制限しようとしたので日本側は奪い合いになったのだ。

勘合を持たずに貿易しようとして騒ぎを起こした日本人もいる。

貿易を拒否されて略奪して帰ったそうだからたちが悪い。

 

塞外民族も明への帰順の度合いによって貿易を許された。

それをコントローすることで塞外民族の結束を分断し、仲間れを起こさせ、統治を省エネで行っていた。分断統治の長所といえる。

そしてそれはうまく行っていた。

よほどの変人でなければ自分たちの利益で満足する

他の部族よりもいい暮らしができるなら、あるいは同じ部族でも他よりリッチなら幸せ度は大きい。

これは今の日本民族で考えるとよくわかる。

首都である東京に住んで、マンションを1棟とか持っている人の余裕度は半端ない。サラリーマン氏が毎日あくせく働いているのを尻目に不動産収入でゆうゆう生活できる。

彼に「アメリカではもっと豊かな人がいるよ」とか言ってもまるで響かない。

「経費を除いても毎月500万以上が入ってくるんだからこれ以上は望まないよ」

「それよりもう少しゴルフがうまくなりたいんだが」とか言うだろう。

 

塞外民族にとっても同じだ。

だからこの明の政策は永遠にうまくいくはずだった。

 

ところが歴史は時に規格ハズレの人物を登場させた。

チンギスハンとはヌルハチだ。

 

しかしこれは凡人の私達だから考えることで本人にインタビューするときっと違う感想を述べるだろう。

「最初は確かに死ぬほど苦しかったけど幸運に恵まれて乗り切れた。それに比べればその後は自然に歯車が回ってくれたよ」とか。

 

自分は持ってないが、マンションも一番初めの一棟がきっと一番大変だろう。10棟を11棟にするのはあるいは10棟を20棟にするのはそれに比べれば道筋と信用ができているので楽だろう。あくまで想像だけど。

 

99.99%の人はある程度の富で満足するがごくごく一部はより高い目標に進むのだろう。私達は現在から過去の歴史を見ている。

実際の歴史は歴史でみるよりも何百倍もドラマチックだろう。

同じ民族を噛み合わせて戦わされることに終止符を打ちたかった。

漢民族遊牧民支配は非情だ。忠誠の証として同族を攻めることを強いる。

それは豊かさを求める限り輪廻のように続く。

ローマ帝国の剣闘士たちが生き残るためには毎回同業者との戦いに勝たなければならなかったように終わることはない。

針の穴を通すような幸運を経て部族の長になった例外的な部族長のチンギスやヌルハチには漢民族から自立するほうが容易に思えたのかも知れない。

元に戻ると

10歳で母をなくして継母の元で育つ。

25歳で父と祖父が死に部族の長として自立。

これについては悲惨な現実を歴史は伝えている。

敵の城に使者として話し合いに乗り込んだ祖父と父を味方であるはずの明の将軍が敵もろとも焼き殺した。とある。

明の将軍は李成梁という。想像だが味方とはいえ異民族の族長の命は気にかけなかったのかも知れない。単なるミスかも知れない。

とにかく明は過失を認め謝罪した。慰謝料として馬30匹と30通の詔勅(貿易許可証)をヌルハチに与えたのだ。

父と祖父を失った痛手には替えるべきもないがともかく貴重な原資となったことは間違いない。

とりあえずここまでとする。

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人類は均一ではなかった。遺伝子科学が明かす人類の伝搬・・・第一回

こんにちは

2019年7月7日(日)記

学術ブログではないので「わかりやすい、シンプルな」がモットーです

私は全くの素人で主に自分が歴史などを理解するためのブログです。

なので学術的な探求はしません。興味のあるテーマについて書きます。

詳しくないように書こうと思うので不十分な点や間違いもあるでしょう。

どうぞご指摘ください。出典・出所についてはなるべく書きます。

政治的・民族的ポジションは中立です

歴史のブログや本には初めから「日本すごい」「だから日本は特別なんだ」と日本人の民族的優位性を明らかにするための記事が多くあります。

しかしフィルターを通して見た歴史は中立的な判断を生まないのは過去の例から明らかです。

さらに歴史の捏造、利用を多用する中国や韓国と同じ土俵に登る必要はないです。

遺伝子科学の進歩で人類の歴史が明確になりつつある

遺伝子の分野での進歩が激しいです。

これによって過去の不毛な論議が不要になります。

私も詳しくないですが興味のある点を書きます。

1 人類はアフリカで生まれて他に進出した

年代等はどんどん変わっているので記しません。

現在の人類はアフリカに起源を持ち世界に広まりました。

だから世界中の人類は同一であるかに思いますが細かく言うと違うようです。

つまりアフリカにいた人類は遺伝子的に5種類のグループがいてそのうち中央から北東のエチオピアにいたグループが世界進出を果たしたというわけです。

残りの4つのグループはアフリカにとどまりました。

(1)西アフリカグループは身体能力がずば抜けて高い

アフリカにとどまった4つのグループの中でギニア湾沿岸の西アフリカの人は身体能力が高いことが知られています。

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骨量、筋肉量が他のグループよりも20%以上も多いのです。

また筋肉自体の質も瞬発力に優れています。

このことでなぜスポーツ選手に黒人やその混血が多いのかが氷結します。

もともとのレベルが高いのです。

米国のフットボール、バスケットボールの選手の大部分はアフリカ系です。野球でも多いです。中南米の選手が多いですが彼らもアフリカ系です。

日本人との混血でもテニスの大阪選手、バスケットの八村選手、陸上のサニブラウン選手と私達素人がみても運動能力が日本人よりずば抜けています。

(2)母系染色体と父系染色体がある。

母親を介して伝わるミトコンドリア染色体(イブと言われる)と父親を介して伝わるy染色体があります。(アダムといわれる)

自分は染色体は全部同じだと思ってました。

2つあることでそして、その分布が違うことで様々なことがわかります。

(3)日本人は他の東アジアとはかなり遺伝子が違う

父系のy遺伝子の分布を見ると

1 東南アジア、台湾、華南は類似性が高いです。

2 華南、朝鮮、日本には南方系の遺伝子が入っていますが華北は少ないです。

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※研究の年代により資料は変わりますので大雑把に考えます。

3 日本は独特で中国や朝鮮のグループには入らないこと。→日本民族は遺伝子的に他とは大きく異なった独自の構成であることがわかる。

♡他の資料では縄文系の割合はより少なかったですね。

日本で縄文系の割合が多いのは沖縄、北海道、出雲地方となっています。

縄文人と他からやってきたアジア系との混血が進んで日本民族になった。

♡朝鮮や華北と比べると南方系の割合が多い。朝鮮半島経由以外での流入があったことがわかる。

♡この分野はどんどん研究が進んでいるのでこれから新たなことがわかるだろう。

ここまでの結論

遺伝子科学がさらに進むと民族、部族の分類が正確にできるようになる。

現在の国境を持って「同じ民族」という中国の主張は無理になる。

民族の考え方、行動は遺伝子に基づいているものもある。

日本人は縄文系と南方系、中国系が混血して他にはない独自の民族になった。

 

昔は同族、部族の認識はどうだったんだろう?

昔は遺伝子の知識はなかったので自分たちの認識で「同じ部族」「広い意味での同じ部族」「異なる部族」「敵対する部族」とかの認識だったのだろう。

同じ神とか動物とかを先祖とする考えもあったろう。

モンゴル族は「蒼き狼」を祖先と考えていたようだし。

皇室の先祖はアマテラス大御神で神ですね。

 

とりあえず今回は以上です。

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アジアの歴史を勉強するために歴史ブログを始めます。

こんにちは

2019年7月6日(土)

アジア歴史のブログ始めます。

1 書く人は

チンギスハンといいます。現在67歳。65歳でリタイアしました。

趣味は山登り、山歩き、歴史、投資です。

投資では米国株の投資のブログを2年半書いています。

今度好きな歴史のブログを書きます。

広島県の地方都市の住人です。かみさんの実家の神戸にも半分くらい住むことになりました。

2 アジアの歴史ブログを始めようと思ったきっかけは

投資ブログを書いてみて自分にとって本当にプラスでした。

文章をまとめる力がついたと思うし何しろ書くことが苦でなくなりました。

簡潔に説明しようとするとシンプルになり自分自身の考えもまた整理されるのです。

コメントを頂いたり、またブログを始められる方は一緒に始めましょう。

ブログ村のコーナーを見るとそんなに参加者が多くないようなので今後一緒に盛り上げていけたらいいですね。

3 余計なバイアスは排除して真実に迫りたい。

書店に行くとアジア関係、中国とか韓国と日本についての本はたくさんあります。

しかし残念なことに初めから結論ありきのバイアスが掛かっている本が多いです。

「だから朝鮮はだめなんだ」「中国はいかにだめか」その裏返しとして「日本はど素晴らしい国はない」・・・

自分の気持ちに沿って書いてある書物を読むのは娯楽にはいいかもしれませんが真実を探る姿勢としてはNGです。

中国の各王朝の正史がありますが、これらはその王朝が滅びてから十分時間が経ってから書かれました。

バイアスを避けるためです。

また、滅ぼされた王朝や王は事実以上に悪く書かれるのが通常です。

これは悪逆非道であったので天命が新王に下ったことを正当化するためです。

4 中国から見た記述にはバイアスがかかっている。

文字を持たなかった部族は歴史書を残しませんでした。

積極的に歴史を記録したのは中国です。

だから他の部族の歴史も中国の書物に書かれている記述が元になっています。

中国では他の民族になるべく悪い名前を付けました。

日本も「わ」という音に対して倭という字をあてがわれました。

これは「小さい」「へんぴな」「いなかの」という意味を持ち決していい意味ではありません。

また邪馬台国の女王の名前も「卑弥呼」といやしいという文字が入っています。

当時の中国人の周りの部族に対する対応がわかります。

 

それなのに日本の学校の教科書ではそのままの記述がなんの説明もされずに載せられ、教師は「漢字で書けるようにしておけ、試験に出すぞ」などとのたまわっています。

 

何という歴史観なのでしょう。

「中国人はこういう悪い名前を付けたがこれは実態とは違う」と説明の必要があるし、ましてや悪意のある感じをわざわざ暗記する必要は毛頭ありません。

 

他の民族でも「鮮卑」「匈奴」など悪意のある名前を付けられています。

資料が他にないので中国の歴史書を参考にするほかありませんが、価値観まであがめる必要は全くありません。

5 中国の影響をなるべく排除するために「塞外民族」の立場でも見ていきたい。

名前だけでなく中国人は自分たちを高度な文明の民族とし他の民族、部族は野蛮、未開として見下しました。

しかしこれは①中国が他の地域より早く発展したこと②それぞれの気候風土にあった暮らし方があること

だけのことです。

特に農耕民と遊牧民のライフスタイルは大きく違います。

どちらが優れているかの優劣はつかないのです。

文化や部族の上下を安易に論ずるのは控えたいものです。

6 中国や朝鮮、韓国の不可解な行動を理解する手助けになればいい

私達日本人には、現代の中国や韓国、朝鮮の行動は理解できません。

ネトウヨの言うように「断交」すれば解決するわけでもありません。

かれらの歴史的背景を探ることで、原因がわかればいいなと思っています。

7 日本は特別恵まれた稀有な部族

塞外民族の中で他の部族に攻めらることがほとんどなかった日本はまさに格別恵まれた国、部族と言えます。

気候風土の面からも温暖多雨で植物がよく茂り食糧生産に適していたことも幸運でした。

他の国、部族では常態的に食糧不足だったからです。

唯一中国南部が生産力が高かったです。日本はそこに次ぎます。

だから考え方も穏やかで、他の部族にも寛容で、殺すことを好みません。

 

しかし歴史を考察するときには自分たちの価値観でものを見るのでは正しい理解ができません。

「自分たちは特別であった」という認識は必要と思います。

7 激動のアジアの今後を理解する上で役立つと思ってます。

中国、朝鮮、東南アジア・・・とこれからアジアは世界の中でも主役級の変化が予想されます。歴史の研究で今後の理解が進めば単なる趣味以上に得るものがあると言えます。

8 その他の方針は

なるべく簡素な表現にして難しい漢字は使わずひらがなを多用します。また情報は少なくしてわかりやすいことを第一にします。面白く書きたいと思います。

 

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