前回のあらすじ
明の朝貢貿易の拒否にエセンが怒り3万の大軍を発して明を攻めた。
この動きに明の宮廷で実権を持っていた宦官の王振は自分の影響力のさらなる拡大を狙って若い皇帝英宗を親征させる。
明軍は居庸関を越えて大同に向かうも大雨で道はぬかるみ行軍は困難を極める。
拠点の大同に到着すると付近の拠点はすべてエセン軍により占領されて作戦不可能なことを知る。
勝手に「勝利した」と宣言して撤退に入る。
長い隊列で撤退行軍する明軍に対してエセン軍は弓矢で攻撃、戦力と士気を奪う。
追われる獣のようにして弓矢攻撃を防ぐために土木保という高地に布陣する。
しかしそこは水が全くない高地だったために滞陣が難しく明軍はエセン軍の攻撃を防げず半数が死に残りは捕虜になる大敗北を喫する。
皇帝英宗は捕虜になり宦官王振は味方の親衛隊に斬られて死ぬ。
エセンは捕虜の英宗を伴い北京に向かう。
エセン軍の誤算
さて皇帝を捕虜にした空前の勝利にエセンが大喜びしたかというとそうでもない
「勝利」の事実はもちろん嬉しいし重要だが、まだなにも得ていないからである。
多くの捕虜は得た。
しかしそれだけで大動員のエセン軍が満足するわけではない。
つまり財宝が必要なのだ。
絹織物や銭やそのすべての物資を塞外は欲している。
その面でエセンはついてなかったといえる
そこそこの勝利なら講和を結んでそれなりの品は確保できたはずだからだ。
中国は領土の割譲は極端に嫌う。
また上下関係にも敏感だ。
頭を下げるくらいならカネを渡す
エセンは明の上位に立ちたいわけではなかった。
要するにカネだけがほしかったのだ。
さらにエセンにとって不幸だったのは攻略目標は北京だったことだ。
もし他の城なら攻略できてそれなりの戦果もあったことだろう。
しかし、北京は明の首都であり、かつ永楽帝がモンゴルからの攻撃を食い止めるために作り込んだ、明最強の砦だったからだ。
下は北京城の楼閣
ということで要衝、居庸関をやすやす通過したエセン軍も北京城を包囲したものの攻めあぐんだのである。
また遊牧民:漢民族=20:1の法則も城攻めでは当てはまらない。
馬の機動力が使えず、守る方は高い壁に守られているからである。
今度は明の事情を見てみる
追い詰められた明は新皇帝を即位させて防衛を図る
唯一無二の存在である皇帝が捕らわれたからといって簡単に廃立はできない。
もし現在の皇帝が生きていて皇帝の座に返り咲いたら、新しい皇帝を擁立した関係者は全員が「反逆罪」として死罪になるからだ。
実際今回もそうなった。
だからよほどのことでないと新帝を建てる決断はできない。
まずは敵軍と「返してもらう」交渉をしてからとなる。
しかし今回は明側に中心となる実力者が不在だった。
宦官の王振は土木保で死んだからである。
宮廷にいたのは皇帝の弟で留守を預かる後の景泰帝(在位1449~1457年)生年1428年~1457年
とその取り巻きである。
皇帝がいないときには最高責任者は皇太后になる。孫氏である。
皇太后にしてみればどちらも自分の子供である。
そして明は存亡の危機にある。
発祥地である南の南京に難を避ける案も出されたが、南宋がそれにより滅びたことを例に出して兵部侍郎の于謙が退け、皇太后の命によって景泰帝が皇帝に即位した。
一応形式としてかん国になってからだが。
こちらが景泰帝
ここで明には二人の皇帝が存在したのだ。
景泰帝の体制
景泰帝は即位すると自分を立ててくれた于謙を登用して権力基盤を固めた。
実権を独占して財物を溜め込んでいた王振の一族を逮捕して財産を没収した。
王振一族の粛清により新皇帝の人気は高まりエセン軍の重囲をはねのけることができた。
エセン軍と明側が講和成立。皇帝は返還
困ったのはエセンであるせっかく捕らえた皇帝の価値が一気に無価値になってしまった。
あせったエセンは明側と講和の交渉を行った。
エセン軍の包囲に耐えていた明側も苦しかったことはエセン軍以上である。
講和を拒否する理由はどこにもない。
かくして両軍の間に講和が成立した。
戦場では無類の強さのモンゴル兵も策略にかけては漢族の方が上だ。
明は形式上のモンゴル軍の総帥であるトクトアハンを交渉相手とした。
「そいつはただの飾り物で本当の首領はおれだ」というわけにもいかずエセンは困った。
結局おだてられてトクトアハンは講和を承知した。
この後も明側の執拗な分断工作は続く。
条件は
交易は今までどおり行う。ただしトクトアハンにも権利が認められた。
とらえた英宗は無条件で返還する。
エセンは戦果の割にはなにも得るものがなかった。
英宗は太上皇帝になるも軟禁の身
景泰帝も腹違いとはいえ兄なので殺すわけにもいかず「太上皇帝」として北京城に軟禁した。
しかし体面をおもんぱかって、英宗の息子を皇太子に任命して融和を図った。
しかし皇帝の気持ちは誰にもわからない。
権力の座につくと自分の子供に継がせたいと思うのは当然だ。
さらに甥とはいえ、兄の皇帝の座を奪ったと皇太子が考えていれば自分の死後、自分は批判されるかも知れず、皇帝となり権力を握った皇太子が自分の子供を殺す可能性もある。というか中華の歴史は近親者を粛清する例で溢れている。
その場合はその後の禍根を断つために一族皆殺しがデフォルトだ。
日本でも秀吉は淀君が生んだ我が子?秀頼に後を継がせるために弟秀長の子供秀次を妻妾、子供すべて鴨川の河原で殺害した。
皇太子を我が子に交換、賄賂を送った皇帝と呼ばれる
景泰帝は即位3年目に我が子を皇太子を廃立して我が子と交換した。
反対する家臣がいた。
なんと景泰帝は家臣の不満をなだめるために家臣たちにカネを配った。
「家臣に賄賂を送った皇帝」と影で嘲笑されたそうだ。
クーデターで英宗復権 (奪門の変)
せっかく立てた自分の子供の皇太子はなくなり他に子供もいなかったので後継者は立てなかった。
自身も病気になった。
この状況に太上皇帝に近い家臣が英宗を再び帝位につけるべくクーデターを起こして再び帝位についた。2度めは天順帝と名乗る。
その後景泰帝も病没するがまだ30歳だったので病気だったとはいえ殺されたのだろう
粛清の鬼となる
最初の犠牲者群はみなさんの予想通りだ。
皇帝の自分を差し置いて弟を皇位に付けた関係者を残らず処刑。
次に粛清されたのは奪門の変で自分に味方して帝位につくことに協力した重臣たちである。
皇位に付けたことをたのみに専横の振る舞いが多かったのだ。
このことが英宗の逆鱗に触れて粛清される。
晩年、といっても38歳で亡くなっているのだが、自らの粛清を悔いている。自らの死にあたっては殉死を禁じている。
エセンのその後
大軍を動員しながら大した収穫もなく帰らざるを得なかったエセンだがさらなる追い打ちを受ける。
明の分断工作にあう。
明は以前のようにエセンと朝貢貿易を続けるとともにチンギスハンの血筋を引く主筋のトクトアハーンに目をつける。
「本来はモンゴル族はトクトア様が治めるのがスジですね」
「自立されるのなら明は恨みのあるエセンよりトクトア様を応援しますよ」
といって分断に出たのだ。
もとからトクトアにはチンギスハンの後継者である自分が傍流のオイラトの風下についていることに不満があった。
今まではエセンの圧倒的な軍事力の前にはいかんともできずに名目上の主君の地位に甘んじていたのだ。
自立を目指してうごき出した。
その動きがエセンにもれないはずはない。
土木の変から4年後にトクトアを殺害。反乱の核として推戴されるのを恐れたのだ。
そして自らがハンとして即位。エセン・ハンとなった。
しかしこれはモンゴル族のしきたりには合わないものだった。
エセンの武力とトクトアの正当性がエセン陣営の強みだったのだ。
明の策略にはまったといえる。
翌年にはエセンは自分の部下に暗殺されオイラトは力を失った。
エセンあってのオイラトだったのだ。
以上です。
素人の長い記事をお読みくださりありがとうございました。
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