アジアの歴史byチンギスハン

中央アジア、東アジアの歴史を部族の視点から研究する

【土木の変】明の皇帝が捕虜になった土木の変、モンゴル・オイラートとの戦い(1)

今回は中国史上でも珍しい「皇帝が敵の捕虜になった戦い」をお送りします。

漢民族の国である明の第6代皇帝正統帝、在位1435年~1449年が主人公です。

この正統帝はもう一つ明の皇帝の中では変わった経歴です。

それはもう一回天順帝として皇帝に返り咲いているからです。在位1457年~1464年

合計すると21年帝位についていたことになります。

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明代は一人の皇帝の元号は一つだけなので皇帝名を元号で呼ぶのが一般的です。

例えば明を開いた太祖は洪武帝元号で呼ばれるのが一般的です。

そうするとこの正統帝は例外なのでややこしいことになります。

それで廟号をとって英宗と呼ばれる方が多いようです。

生年1427年で8歳で1回めの皇帝になったことになります。幼帝です。

38歳で亡くなっていますが波乱万丈の人生でした。

 

明は北方のモンゴル族の脅威に苦しんだ

明はモンゴル族の元を北方に追いやり建国しましたがモンゴルは滅びたわけではありません。

北元としてモンゴル高原を中心に依然として大きな力を持っていたのです。

そのため3代皇帝の永楽帝は大規模な対モンゴル遠征を行ったりして成果も上げました。

防御力を高めるために首都も北方に近い北京に移して高い城壁を築いたのです。

また現在残る万里の長城は明の時代に築かれたもので壮大なスケールと規模を誇ります。

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秦の始皇帝によって築かれた長城よりは位置的には南になります。

それだけ防御範囲を限定して手堅く守ったと言えます。

有名な山海関からの点線は低い土塁で作った防衛線。モンゴル族女真族への備えとして作られた。

万里の長城は役にたったのか?

写真を見てまず感じるのはこの建築物をつくるのは大変だったろうなあ。

重機もない時代に人力で作ったのです。

大変さがしのばれます。動員された民衆の苦労は大変なものだったでしょう。

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この長城の建設の目的は北方民族との戦力差を埋めるためです。

戦車や飛行機・自動車がなかった時代で馬による機動力は圧倒的でした。

 

中国にも馬はいたし騎兵もいました。

しかし中国人の場合は訓練を受けて騎兵になります。

また大部分は歩兵です。

中華の国どおしの戦争ではそれで立場は対等なのでいいのです。

だから兵力10万と1万が戦えば兵力が多いほうが有利です。

 

しかし北方遊牧民と漢族の兵士の戦いでは兵力差が1:20くらいが相場だと言われています。野戦の場合ですが20倍の戦力差があるのです。

 

その理由は馬の利用による機動力の差です。

モンゴル兵は一人で5から10頭の馬を連れたといいます。

モンゴルの馬はいわゆるポニーで小型の馬なのです。

だから一頭の馬を長時間使用するとつぶれてしまいます。

10頭くらいを乗り換えながら使用するのが一般的だったのです。

 

遊牧民は幼少の時から馬に乗ります。遊牧に必要だからです。遊びも仕事も馬なのです。だから彼らは馬の乗り方が漢人よりは断然すぐれていたのです。

防御するものがないと戦いにならない

馬を使っての戦いでは遊牧民漢人ではプロとアマの差があります。

彼らは振り向いて後ろの敵を射ることができました。

また馬の腹側からも弓を射ることができたのです。

モンゴルの弓は小型の短弓で扱いやすくて威力がありました。

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防御するものがない平原での戦いでは一方的に不利です。

漢兵はしゃがんで盾で取り囲み防御しますが、防御が固いと見れば逃げ去り別の場所を探します。

こうしたことから兵力差の1:20は当然の結果です。

 

長城があれば敵は簡単には乗り越えられないので機動力を封じることができます。

小部隊の移動はシャットアウトできます。

諜報活動や陽動作戦も制限を受けます。

 

反対に漢族側は長城が移動の道になります。

遊牧民と漢族兵の大きな差は縮まります。

 

実際に山海関は破られなかった。

遼東から中華を守る関門である山海関は明が滅びるまで一度も破られることはなかったのです。

勇猛で鳴る満州八旗の清軍もとうとう落とすことができませんでした。

満州族創始者ヌルハチは攻撃の時ポルトガル製の大砲の破片が元で死にました。

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難攻不落の山海関は最後までその防御力を発揮しました。

満州の清軍がここを通ることができたのは明の守将である呉三桂の寝返りによってのことです。北京を占領した李自成に反発しての行動です。