アジアの歴史byチンギスハン

中央アジア、東アジアの歴史を部族の視点から研究する

【土木の変】(2)明軍死地で大敗、しかしもともと互角の戦力だったと思う

 土木の変(2)

 北方を北元に代わりオイラート部が支配

明によって北に追われた北元が勢力を占めていましたがモンゴル高原の北西を根拠地とするオイラート部に英雄エセンが出てモンゴルを統一しました。

ただし名目上の王はチンギスハンの子孫のトクトア・ハンにしていました。

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オイラートはたびたび国境を侵して略奪をしていました。

これに悩んだ明は伝統的な方法で解決しました。

形式上明に服属させて利益を与える方法です。

朝貢貿易といいます。

明は鄭和を東南アジアに派遣したこともありましたが民間での貿易は禁止していたのです。

だから他の国が明の絹織物を手に入れるのは非常に困難でした。

どこからか流入すれば高い値段で取引されました。

 

明は正式には貿易はしなかったのです。

朝貢貿易の流れ

北のモンゴル族との間では馬を献上してそのお返しにその何倍もの品物を渡す形式で行われました。

明側の大幅な赤字貿易です。

安全をお金で買う宋以来のお家芸です。

 

明側としては赤字幅を押さえたいのでなるべく小さくやりたいのです。

だから交易の場所や規模を制限していました。

貿易使節団の人数は50人と決められていました。

 

日本との勘合貿易では割符である勘合の数は決まっており商人や大名の間で奪い合いになりました。

義満も儲けましたが博多商人、堺商人、大内氏などが大きな利益をあげました。

生糸では30倍の利益があったと言われています。

品物が極端に少なく競争相手もいないので勝手に値段をつけることができました。

売るのに苦労している商業の人には夢のような話です。

 

義満は儲けたお金で京都の北山に金閣を建てました。

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今でもびっくりする豪華さですが当時は空中廊下で他の幾つもの建物とつながっていたそうです。

その後義満は準后となり臣下と皇族の間くらいに上り詰めます。

その後謎の急死を遂げて、反りが合わなかった息子が金閣を残して他はすべて壊してしまいました。

義満は貿易の条件を満たすために「日本国王 臣義満」と称したことが問題とされています。

中国に対して臣下と称したのがけしからん、日本の名誉を貶めたという理由です。

しかしこれについては別の見方もあります。

中国皇帝=同格=日本の天皇

        ↓

        征夷大将軍義満

天皇の家来である征夷大将軍の義満は中国皇帝の臣下と称しても構わないという理屈です。

義満については強引なエピソードはおそらく日本歴史上トップでしょう。

貴族や寺社を訪れて気に入った樹木や石があれば所望し、渋って応じなかった貴族が後日池に浮いていたとか、気に入った女性がいればこれまた所望し、渋った貴族は・・・

おまけに天皇の周りの女官にも手を付けていて、天皇がすごく嫌っていたとか

かの信長でもそんなことはしていませんから。

いつか記事にしたいですね。

オイラート使節団は大幅な水増し

それほど押しの強い義満を上回ったのがオイラートのエセンでした。

50人の使節団の定員に対して1440年には千人を突破しました。

20倍の水増し。カルピスなら薄くて飲めません。時代がわかりますね。

その分民は負担が増えるわけですから困るのですが、渋ると国境を略奪されるので仕方なく応じていました。

 

「ロバを潰すのは最後のわらしべ一本」ということわざどおり、とうとう明の忍耐力を突破しました。

1448年冬、エセンは3598人の使節団を送ると通告してきました。

定員の70倍です。

さらに明側が調べてみると実数は大幅に下回ることがわかりました。

少なくやってきて申告した人数分もらおうという図々しい作戦です。

エセンの方は図々しいなんてちっとも思っていません。当然の権利だ。

「国境を荒らされるよりは安いだろう」とそろばんをはじいています。

 

明側はこの年の通商を拒否。ついでにエセンと明の皇族の女性との婚姻が決まっていたのですが「地方官が勝手に決めたこと」としてこちらもなかったことにしました。

♣王族と言ってもたくさんいるし、さらにたいていは女官を養女にして送り出したので明側としてはできない注文ではなかった。モンゴル一の実力者に対してすることではない。塞外民族は婚姻での血の繋がりを重視したのだ。女性を低く見るわけでは決してないが、結果として自称50万の兵士が全滅することになるので大事な婚姻だった。

メンツを潰されてエセンは怒り全軍を動員

けちりメンツを潰した償いをさせてやろうとエセンは大動員をかけました。

兵力2万とも3万とも言われています。実数はさらに少なく1.5万ほどだったでしょう。明軍が自称50万を動員しましたから数の上では大したことが無いように一見見えます。

しかしモンゴル兵は1人が10頭ぐらいの替え馬を連れ、さらに食料として10頭以上の羊や山羊を連れたので大移動です。

兵糧の運搬は遊牧民が有利です。ひつじやヤギは自分で移動しますから。

さらに食料が足りない時は馬も食料にしました。

輜重部隊は少数でいいのです。

♡兵力差が大きく感じられるが遊牧民と漢族の戦いでは10~20倍の差が標準なので互角といえる。あとは作戦、用兵、将軍の差となる。さらにこの戦いでは兵站の差が勝敗を分けました。

エセン大軍を発するに明は震撼

モンゴルに何度も痛い目にあっている明側はエセンが大軍を起こしたことを知り恐れます。ならばケチったり婚姻を破棄しなければいいと思うのですが、なんかちぐはぐです。

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宦官王振のもくろみ

明の宮廷で実権を握っていた宦官の王振は賢い人物でした。

学識が高く皇太子の家庭教師を努めて皇帝の信頼を得ました。

そして特務機関である錦衣衛を握って政敵を追い落として強大な実権を握り蓄財をほしいままにしました。こう書くと悪い宦官の典型的なパターンですね。

彼に弱点があるとしたら軍事の経験がないことです。

 

そこでかれは得意の計略を使い皇帝の親征を要請しました。

何もわからず、辺境への戦争に行くのを嫌がる皇帝を言いくるめて親征となりました。

これでどうあっても王振は責任をとらなくてもよくなりました。

 

自称50万の大軍で首都北京を出発。居庸関を通り戦地へ近づきます。

居庸関はこちら 防御力がとてつもなく高そうです。

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前線基地の大同に向かいました。

道中大雨に降られて士気も低下しており苦難の行軍となりました。

大同に到着するもすでに周辺の明軍基地はオイラトの攻撃で壊滅状態なことを知ります。遅すぎ。

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進軍不能

ぬかるみで行軍の動きが鈍り、補給も停滞して士気も低下していた明軍はそれ以上の作戦を諦めて勝手に「勝利を宣言」して撤退に移りました。

晴れた日でさえ20万を越える軍の補給は難しいのに大雨では輜重の車も動かず補給は無理だったでしょう。

無理やり皇帝を担ぎ出しての遠征なので「無理なので撤退」といえるはずもなく戦果はなくとも「勝利」といったのです。

エセン軍の攻撃を受ける

撤退戦で意気が上がらない行軍に対してエセン軍は間断ない攻撃を容赦なく仕掛けました。

狩りに慣れた遊牧民にとって逃げる敵を仕留めるほど楽なことはありません。

味方の損害がないからです。

損害を常に気にする彼らも凡将に率いられた失意の軍を襲うほど楽なことはありません。

狩りの感覚て矢を射掛けで相手が防御の姿勢を取ると他へ移ります。

自称50万実数25万の大軍が損害を出しながらなすすべもなく絶望的な撤退の行軍をしたのです。

 

オイラートの罠にかかる

間断のない矢の攻撃にさらされた明軍歩兵は何とかして矢を防ぐ必要がありました。

そこで高地を見つけて自ら登って陣を敷いたのです。

高地は弓矢からの防御に有利です。

明軍は高台の土木保に布陣 

この高地を土木保といいます。

やっとたどり着いた高地に陣をしいて明軍はさぞかしホッとしたでしょう。

少なくともここにいる限りモンゴルの弓矢からの攻撃を受けることはない。

土木保は水のない死地だった

しかし結果的にその地は明軍にとって死地になりました。

水がなかったのです。明軍は早速陣地内に井戸を掘りましたがいくら掘っても水は出なかったのです。

渇水していたのではなくてそういう地層の土地だったのです。

水の備蓄を使い果たしていた明軍はその晩から水がなかったのです。

兵士がそれに気づかないはずはなく士気は下がりまくりパニックになりました。

 

水が付近になかったわけではありませんでした。

低地には川が流れしかも長雨で増水していたのです。

しかしその地はオイラト軍ががっちり押さえていました。

全くの作戦ミスです。

 

しかもここは上の地図でもわかるように明の領地です。

知らなかったでは言い訳になりません。

一方のアウエーのモンゴル軍の方が地形をよく知り生かしたのです。

これでは勝てるはずがありません。

オイラト軍の総攻撃で明軍は文字どおり壊滅して半分が戦死、残りは捕虜になり一方的な戦いになったのです。

 

皇帝は逃げることができず呆然と立ち尽くしているところをオイラト軍に囚われました。皇帝が敵軍の捕虜となるのは長い中華の歴史の中でまさにこれ一回です。

宦官王振は乱戦の中で明の親衛隊に殺されました。

 

エセン軍は捕虜となった皇帝を連れて北京に向かいました。

今回はここまでです。

最後にこの戦いのポイントを考えたいです。

もともといい勝負だった

本を読んでいると「明軍は圧倒的な大軍を擁しながら大ドジを踏んで寡兵のエセン軍にやられた」みたいな論調が多いです。

私は別の見方をしています。

それは明軍の大チョンボがなくてもいい勝負だった。と思うのです。

従来言われている明軍50万とエセン軍2.5万は20倍で野戦では互角です。

 

 

だから双方がベストを尽くしていても「いい勝負」だったと言えます。

明軍としては野戦を避けて強固な防衛線である長城や砦を活用すれば勝機はありました。

しかし未経験の王振が兵站も、準備もなしで戦えば土木保の失態がなくても大敗は確実だったでしょう。そのくらい漢族と遊牧民の戦力差は大きいのです。

塞外ならいざしらず、勝手知ったる自国領内でわざわざ死地に布陣して壊滅したこの戦いは何かしら後味が悪い戦いです。

エセンと英宗のその後の波乱万丈の人生については次回にします。

 

ここまで長い文をお読みいただきありがとうございます。

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